KAITA子育てと四季彩のまち 海田町

海田町では、地域と行政が一体となり
子育て支援に力を入れています。

妊娠期から子育て期にわたる
切れ目ない支援を。
海田町では安心して、楽しみながら子育てができるよう、
ひまわりプラザの機能を強化し
『かいた版ネウボラ』を設置、母子保健コーディネーター(保健師)や子育てコーディネーター(保育士)が常駐し、
妊娠中からお母さんの心配事などの相談に乗ります。

海田町の
待機児童数は

0

『ネウボラ』とは
フィンランド発祥のワンストップの子育て支援拠点。「助言の場」を意味します。出産や育児に関する相談を1カ所で引き受けることで、対応する保健師が親子との信頼関係を築きやすく、異変も察知しやすい利点があるとされる。同国では妊婦や乳幼児の健診も担っている。
海田町のネウボラの取組については2017年11月11日の中国新聞(朝刊)にも取り上げられました。
子育て支援パスポート
海田町加盟店より、小学生以下のお子様のご家庭に様々なサービスがあります。
乳幼児等医療費の助成
0歳から中学校3年生までの乳幼児等に医療費の助成があります。
不妊・不育治療費の助成
海田町では、不妊・不育治療費の助成があります。

ひまわりプラザ
子育て支援センター

徒歩1分

〒736-0052 広島県安芸郡海田町南つくも町11番16号
ひまわりプラザ
Tel:082-824-1225 Fax:082-824-1246

ひまわりプラザ(海田町ホームページ)

海田町データ海田町人口29,636人(平成29年3月末住民基本台帳人口)

出生率が高い
(県内1位)

出生率=人口千人当たり
出生割合

  • 町:11.2(県内1位)
  • 県:8.5(全国9位)
  • 国:8.0
    (H26 人口動態統計)

高齢化率が低い
(県内1位)

高齢化上昇6.9ポイント

  • 町:22.1%(県内1位)
  • 県:26.6%
  • 国:26.2%
    (H27年1月1日現在)

年少人口割合が
高い(県内3位)

  • 町:14.7%(県内3位)
  • 県:13.6%
  • 国:12.9%(H25年10月現在)
    (H26 人口動態統計)

医療機関の充実

  • 病院:2施設
  • 一般診療所:31施設
  • 歯科診療所:19施設
    (H28年4月現在)

都市部と自然のちょうどよいバランス。

快適なくらしを実現する立地
海田町は、市街化が進む中にも、豊かな自然が息づいています。それでいて県の中心地である広島市からも近く、
交通結節点としてそのほかの地域に足を運ぶにも便利です。
都市部と自然のちょうどよいバランスの中で生活の利便性と心身の健康を両立した、豊かで快適な暮らしを実現することができます。
豊かなくらしを実感できる
自然環境
 生活圏に豊かな自然が共存する海田町では、スポーツやレジャー・レクリエーションを緑や水など自然に囲まれた好条件のなかで楽しむことができます。自然は日々の生活にうるおいを与えてくれるほか、子どもの健全な発育が期待できます。
 里海・里山・里川の3拍子が揃った海田町ならではの自然環境の中で、毎日リフレッシュ! 都心では体験できない豊かなくらしを実感してみませんか?
瀬野川
海田町の中心を流れる瀬野川。川砂や川石、中洲が自然のまま残っており、魚や昆虫、野鳥などが観察できる生物豊かな川です。
日浦山
標高345.9メートルの日浦山には、登山ルートが整備され、約60分ですばらしい眺めの頂上へ。遠く宮島までも臨むことができます。

縄文時代から現代まで、歴史の深いまち、海田。

海田町の歴史
緑あふれる山、清らかな川。いにしえの面影を残す貴重な歴史遺産の数々。
古くは山陽道の宿場町として栄え、戦後も交通の要衝としてきた海田町は
自然と文化と産業が豊かに溶け合った、温もりと活気のあふれる町です。
集落の発生
この地域に人々が住みはじめたのは、近隣の遺跡の存在から考えて、約一万年前、縄文時代より。江戸時代に入り、近世の西国街道が整備されると、海田市は大坂と下関を結ぶ宿駅の一つとして機能を高め、さらに発展を続けていきました。
中世
「かいた」という名が初めて記録に出るのは、平安時代の終わり頃のこと。その頃は「開田荘」と呼ばれる皇室領系の荘園で中心部は、現在の日下橋付近にあり、二日市と呼ばれていました。
二日市は、市場と港の機能を兼ね備えた商業のまちであるとともに、交通の要衝として戦略上の重要な拠点でもあったため、戦国時代の海田には、日浦山をはじめ、複数の城が築かれました。
二日市から海田市へ
海田市には、大名や役人の宿泊に当てるため、本陣のかわりに転用された、「御茶屋」という公用施設が熊野神社西側にあり、海田公民館のあたりには「脇本陣」も設けられていました。中世の終わり、毛利氏が広島に城下町を築きはじめた頃、瀬野川の土砂で陸地化がすすんできた海田では、二日市からより河口に近い海田市へとまちの中心はうつっていきました。
猫屋や神保屋といった大商人も移住し、海田市は港と商業の集積地として次第に整備されていきました。
近代
日本が明治・大正・昭和と激動の時期を迎えると同時に、海田のまちも様々な変革へと動き始めます。日清・日露・第二次世界大戦と続く戦争の時代、広島と呉という軍事拠点に挟まれた海田は、鉄道敷設や軍用地の接収が行われました。
海田市町には陸軍被服支廠海田市倉庫、奥海田村では海軍第11空廠が建てられました。
明治期、二つの鉄道線路の開通が、その後の海田の進路を大きく決定付けることになります。明治27年(1894)に山陽鉄道(現在の山陽本線)、明治36年(1903)に呉線が開通し、二つの線路が交わる海田市駅は、戦争物資と人員輸送の重要な拠点として機能するようになり、同時に海田市町の経済の発展にも大きな影響を及ぼしました。
現代
旧軍用地への企業誘致活動の結果、昭和32年以降多くの企業の工場進出があり、以後海田は、高度成長の波に乗り、工業都市としての発展を遂げました。